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歴史地震研究で感じたこと(要旨) TOP PAGE
『歴史地震』第1号(1985, 東京大学地震研究所)所収

歴史地震研究で感じたこと(要旨)

建設省建築研究所国際地震工学部
石 橋 克 彦

 これは、おおむね、1984年9月8日の歴史地震討論会2日目に話したことの要旨である。
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 私は少しずつ歴史地震を調べているが、いまのところ純粋に地震学的観点から調査を行っている。つまり、サイスモテクトニクス(造構論的地震発生論)の見地から必要とする歴史地震を対象として、主として史料からそれらの地震学的実態や地学的意義を明らかにしようとしている。
 その場合、(まず史料をできるだけ沢山集めるという第一義的に重要なことは別格として)、一番大事なことは、史料の中から確かな事実(いまは主に自然的事実)だけを選び出すことであり、そのために史料の素性や信頼性を吟味することであろう。これは歴史学では一番初歩の常識だろうが、地震学ではまだ必ずしも方法論として確立しているとはいえないようである。歴史地震研究の分野では、武者金吉氏の『増訂大日本地震史料』(以下『武者史料』と略称)という金字搭があまりにも大きいために、従来は、これに掲載されていることをすべて事実だと鵜のみにして、それを地震学的に解釈するという傾向がなかったとはいえない。
 私は、歴史地震の調査に足を踏み入れたとき、それぞれの史料が誰によって何時どこでいかなる状況下で書かれたものか、たいへん気になった。最初はどうやって調べたらよいのか全くわからずに途方に暮れたが、だんだんいくつかの解題書や参考書を愛用するようになった(岩波の『国書総目録』を知ったときはびっくりした)。
 そのうちに、『武者史料』は膨大な素材であって、後世の我々が注意深く読んでこそ100%生きてくるということを痛感するようになった。今回の会合は意見や現況の交換会ということなので、たいへん幼稚な内容ではあるが、そのような私の経験の中から二、三の事例をお話しし、文科系の方には地震学の現状の一端をうかがうたしにしていただき、地震研究者には何かの参考にしていただきたいと思う。
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 慶長9年12月16日(1605年2月3日)の西南日本太平洋岸の大地震津波は、地震学的実態がまだ解明されていないが、通説では南海沖と房総沖の二元地震とされている。『武者史料(第一巻)』に『蒼屋雑記』という史料があって、“(この日)夜亥ノ時、三崎浦大潮指、浦中男女百五十三人死”とある。従来この“三崎”は三浦三崎とされ、房総沖震源説を支持する材料の一つになっていたと思われる。
 私は『蒼屋雑記』がどんな史料か知りたくてまず『国書総目録』を引いたところ、『土佐国群書類従・伝記部』所収のものであることがわかった。だとすれば、三浦三崎説はおかしい。そこで国会図書館所蔵の写本を閲覧したところ、問題の記事は高知県幡多郡方面の聞き書きの中の三崎香仏寺の条にあった。『大日本寺院総覧』によれば幡多郡三崎村三崎(現在、土佐清水市)に香仏寺という浄土宗の寺がある。これは地元の郷土史家にも手紙で確認した。本当は自分で現地へ出掛けて確認したり観察したりしなければいけないのだが、一応これらのことから、この記事は三浦三崎ではなく土佐清水市三崎の津波のことを述べているのだと結論した(石橋、1978)(ただし、『蒼屋雑記』の史料価値がはっきりしないので、その津波が事実だとはまだ断定できない)。
 実は、『蒼屋雑記』は田山実(1904)の『大日本地震史料』になくて、武者が増補したものである。しかし、1901年発行の『大日本史料(第十二編之二)』には“土佐国群書類従五十三所収”という注記つきで収録されており、“土佐三崎浦ノ海嘯”という見出しまでついている。田山の『大日本地震史料』の編纂は明治の修史事業と全く無関係ではなかったと思われるのにこのような収録もれがあるのは不思議な気がするし、武者も国史の根本史料集である『大日本史料』を参照しなかったのだろうかという疑問が残るところである。
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 『武者史料』を読んでいると、たびたび出てくる史料・文献で素性が不明なものがいくつかある。これらは国史学では全く知られていないか必要のないものが多く、『国書総目録』などにも載っていない。これらのいくつかは、『地震・第一輯』を丹念に見ていけば紹介記事がありそうだが、私はまだ調べを怠っている。そのようなものの一つで最近私が出会った『岩手県沿岸大海嘯取調書』(山名宗真著)について述べよう。
 この文献には、天明2年7月15日(1782年8月23日)の小田原付近の地震を調べているときに出会った。天明の小田原地震は、従来津波を伴ったとされていた。調べていくうちに、津波のことを一番はっきり書いている『天明紀聞』という書物が本件に関してはあてにならないことがわかり、また小田原の新史料などからも、津波はなかったらしく思われた。しかし、『岩手県沿岸大海嘯取調書』に“天明二年寅七月海嘯の為メ大假宿人民不残流亡、其后民家無シ、天明二年七月武蔵・相模両国地大ニ震フ、下総雪降リ江戸逆浪溢シ、溺死者数十人トアル、此時ナラン”とあるのがたいへん気になった。
 幸い、この文献の紹介が『地震・第一輯』に出ていることを羽鳥徳太郎先生に教えていただき、それを頼りに国会図書館で原本を閲覧することができた。その結果、この記事が明治29年の三陸大津波の調査報告書の中に書かれているもので、“大假宿”の件はたぶん現地での聞き書き、“武蔵・相模〜此時ナラン”は他の文献を参照しての山名氏の推測だろうということがわかった。
 参照した文献が何かということが大きな問題だったが、偶然、安政江戸地震後に出版された『大地震暦年考』という小冊子に、このもとになったと思われる記事があるのを発見した。また、天保12年(1841)発行の『泰平年表』にも同様の記事があることに気がついた。『泰平年表』は幕府にとがめられて絶版になったが、その後も写本でひそかに流布したというから、あるいは『大地震暦年考』の種本になったかもしれない。両書とも7月の江戸・小田原の地震のことを書いたあとで、“是月下総国に雪降、同八月四日江戸海辺津波云々”と述べている。
 山名氏は、この系統の記事を何らかの書物で目にして、大假宿の津波の言い伝えと結びつけて書いたのであろう。しかし、結局『岩手県沿岸大海嘯取調書』は天明小田原地震とは関係がなかった。そこで私は、この地震は津波を伴わなかった可能性が強いと結論した(石橋、1983b)。(なお、この地震については宇佐美・他(1984)の研究もあり、やはり津波はなかったと結論している) 他の地震についての『岩手県沿岸大海嘯取調書』の記述にも同様な問題があるかもしれず、十分注意する必要があろう。
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 『武者史料』には、また、『異本搭寺長帳』のような全般的に史料価値の低い史料もかなり収録されている(『異本搭寺長帳』については、永享5年(1433)会津地震に関連して論じた(石橋、1983a))。これには、史料価値の低いものほど地震のことを大げさに書き、地震記事が豊富になるので、『武者史料』に顔を出しやすいという事情もありそうである。
 以上のように、『武者史料』にはいくつかの問題がある。しかし、目下精力的に刊行されつつある『新収日本地震史料』とともに、今後とも歴史地震研究の基礎資料として活用され続けることにはかわりないだろう。そこで、つまらない間違いや余計な手間を減らすために、国史学と地震地学の最新の成果を動員してその内容を(少しずつでも)校訂・精選していくことを、そろそろ考えてもよいのではないだろうか。
 (なお、このようなことに手をつけ始めれば、いずれは、日本語処理のコンピュータ・システムによる地震史料データベースの構築という(たぶん国家的な)事業にまで話は発展しそうである。)
(1985年10月9日記)

2004年9月19日注記: 「 」を『 』に直したほかは原文のまま。いまの私が書けば用語・表記が変わる部分がある。
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